面倒な決まり事に縛られない

写真俳句と称されているのは、一枚のフォトに俳句や川柳を加えたものです。
「そのままじゃん」と思うかも知れませんが、実のところこの写真俳句、あの誰もが知っている作家の森村誠一さんの登録商標なのですが、知っていましたか。
森村誠一氏と申しますと、「終着駅シリーズ」や「棟居刑事」等々で知られるサスペンス系の作家。
本音をいうと、写真俳句なんてファンタジー的なイメージが生じないのは、自分一人でしょうか。
刑事モノ好きの私は、日頃から西村京太郎氏の力作を楽しんでいます。
西村氏の作品の中には、確かに写真俳句みたいな感じも、たまに見え隠れする感じがします。
ですが、森村誠一氏には、そういう印象を感じられないです。
この度、この写真俳句を存じ上げて、森村誠一氏のちっとも知らなかった一部分を、目にしたような思いがしました。
そのギャップがユニークで、よくよく面白いなぁっ、と感じますね。
写真俳句のワールドにも関心を抱いた、というのが実情ですね。
まあ森村誠一氏も、今や高齢者ですからね。
写真俳句に興味をもたれる、平和な晩年を過ごしておられる、という事かも知れません。
写真俳句は、フォトが季語を反映しているのですから、五七五の中は季語がなくても大丈夫。
決め事がないのが写真俳句の決め事みたいなもの、と森村誠一氏はおっしゃっています。
おっしゃるとおりで、「目は口ほどにものを言う」の例えどおりに、フォトは視覚からいろいろな情報を伝達されるものです。
当該フォトに、十七文字のワードを添えたのが、写真俳句ですからね。
わざわざ目で見て分かる景色をワードにする必要性はない、とも考えられます。
それより、フォトには形容できない自分の心持ちを添える事で、当該フォトがワードを発するようになります。
現実の上で、森村誠一氏も、いつもの散歩の中で、この写真俳句なる新しい言い回しを考え付かれたようですよ。
つくづく考えれば、映像は映像に、ワードはワードに頼る、という甚だまっすぐな表現方法。
しかしながら、この極めて単純な画像とワードの組合せこそが、写真俳句の飛び抜けた魅力ではないか?と自分は考えます。
例えば、飛ぶ鳥をパッと写して一句、「飛んでみたい、そのうち自分も青空を」などという感じでね。
とりあえず、これは余りにも他愛ない写真俳句ですが、あくまで一例なので、ご容赦を。
写真俳句をこの世界に浸透させた事で、これまでになかった文学者として、さらにスポットライトを浴びた森村誠一氏。
その後は、森村誠一講演会といえば、この写真俳句のことがテーマになる事もあるそうです。
実際のところ、森村誠一氏を審査する側に迎え、フォト俳句コンクール等を行う例もあるみたいです。
殊に、森村誠一氏監修の写真俳句ブログなるWEBページは、素晴らしいです。
写真俳句の作成方法は、趣味関連のブログやWEBページでもたくさん掲載されていますから、いくらでも閲覧できると思います。
しかし、自分ワールドを真に出したければ、森村先生のいうように、面倒な決まり事に縛られない事が肝心です。
独断と偏見で進めてこそ、真に素晴らしい写真俳句を作成できるのかも知れませんね。